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あれはなんだ かたちは無く

価値観の根本的な部分

あるとき、自分の価値観は一般的なそれから逸脱しているという事に気が付いた。それなりに自分の事は好きであるが、この自分の価値観が良い・悪い・正しい・正しくないはいっさい考えずに、観察の対象として興味を持った。そうして分かったことや推測などを、誰に見せるでもなくただ記録としてここに書いている。

どちらかといえば夢日記の方が中心だが、それだって少し夢の捉え方が変わっているだとか、そのような構造はどうも頭や価値観と関わりが深そうだとか考えているからだ。

さて、毎日色々あるし様々な人々の価値観に触れてみるのだが、もう何度も考えた事だが、客観的に見てやはり自分の価値観は一般的ではない。それがなぜなのか、だからどうなるのかには興味がない。こうできていてそれに自分が納得している以上変える気もないし変えられる気もしない。今後少しずつ変わっていくのならそれもまたいい。価値観にも色々あるけれど、これまでの観察で特に根本的だと思ったことなどを改めて記録しておこうと思う。

 

捕捉

※色々なことがあったり考えたりして、根本的な価値観はもともと幼少から見え隠れしていたものの、高校生の頃にはほぼ方向性が定まり、成人後まもなく強固になった。

※また、これらの価値観は、無理に「こうでなければならない」と自分が自分に課したものではない。あくまで自分らしく生きて、自分が自然に心から望んでいる事でしかない。前述のように価値観の構成が未熟な頃は迷う事もあったが、今は全くそのような事はないし、正解か不正解かを気にすることもないから悩むという事は一切ない。

 

○生き方について(自他問わず)

自然体で過ごせばいいと思っている。だからといって人を傷つけていい理由になるわけではないしなるべく悲しい思いはさせたくないが、人と上手くやるために自分を殺したり無理してまで生きる必要もないと思っている。

面白い人、面白くない人、弱い人、強い人、実際に自分の周囲には様々な友人がいる。中には社会的・人間的に良くないとされる人もいる。だがどの人にも必ず自分の惹かれる面がある以上仲良くしているし、自分の友人に価値観を押し付ける気もない。そのままでいい。逆に言えば、押し付けられる気も指示される気もない。その時は面倒だなぁと思うが、不思議なことに、そういう人々はやがて自分から離れていく。それが良いことかどうかには興味がない。ただそういうものとして眺めるだけだ。そういう点においては、自分は人間好きであると同時に人間嫌いでもあるのかもしれない。

では、極端な例であるが、その結果多少「悪」とされる一面があったとしても、これを責める気はない。それは自分の信条の1つが、罪を憎んで人を憎まずというものだからというのと、結局悪と認識したりそこからどうするかは本人の問題であって、それらと他者の関わりには直接の関連がないからだ。つまり、具体例を出すと、自分は彼らに対して変わらず接する。

あくまで自分の場合では、来るもの拒まず去る者追わず。このように生きた結果誰かが来たり離れたりしていってもそれはそういうものなのだと思ってどうもしない。

 

○他者との関わりについて1

人として尊敬できる人は皆好きだし、どのような人であれ生命は尊いと思う。

結婚は今一つよくわからない。素敵な人が多くて1人だけ愛することはできない。素敵な人以外でも、前述の生命への敬意と、宇宙への畏れから、自分は博愛主義者であるとよく思う。

また、その主義とも関連することであるが、自分は人が幸せならそれでいい。見返りも求めなければ、自分を愛してほしいとも思わない。

 

○他者との関わりについて2

よく人々は他者と自己とを比較して、両者の上下を決めたがる。自分はこういうことはしないし理解もできない。

その根底にあるのは、「自分は自分、他人は他人」という考えだ。そもそも全く条件が違うのだから比較ができないし、何らかの基準で比較したとしても、それでどうするというのだろう。一部の人は優越感や劣等感を味わったりするというが、それは自分の生き方に少しでも不安のある人がすることだ。自分の生き方に不安があっても別に良いとは思うが、それらの発想や行動には理解も共感もできない。

ただし、自分の中に、誰と比べるわけではなく「理想的な人間像」というものはある。つまり、目標は常に自分の中にある。あくまで自分は今の自分を気に入っているし生き方も納得しているが、一般的に見て不得意な分野があり、それを克服することで人のためになるという部分が多いので、出来ればそれを克服するよう頑張ってみようとは思っている。これに対して本気に考えているが、絶対に達成しなければならないものとは思っていない。

人が社会で生きる物である以上、他者からの評価が絶対だと考える人が多いが自分はそうは思わない。結局他者からの評価など曖昧なものだし、それを認めた時点で、その他者の判断や評価もまた他者の他者であるのだ。それは実体のない悪夢のようにも見える。ならば結局自分がどれだけ自信を持てるかという絶対的な評価の方が明確だし実体もある。絶対的な自信を持って主体的に動く方が物事にたいして受容性が高いとも思う。その結果状況が良くなったり悪くなったりしても、それはそのときだ。思うに、(特にアジア圏の)人々は極端に周囲の眼を気にしすぎていると思う。

 

○家族について

自分は精神的に強い部分もあれば弱い部分もあると自覚している。強いところは、解決のためなら争いをも受け入れるという部分や、多少の不利益があっても(あくまで心からの願いとして)自然体で振る舞うという部分だ。一方弱いところは、傷つけるという事に極端に敏感で虫一匹さえ殺せなかったり、仮に自分の命で世の中を救えるだとか誰かが死ななければ誰も助からないというような状況だと、自分から命を落とすだろう確信がある部分だ。

また、精神的な部分とは異なるが、自分は直感にも似たある使命感を持ち、それを達成することが人生の最終目標なのだと感じる。ただの気のせいかもしれないが、明らかに何者かの意思を感じるし、それを成すために生まれて生かされているとも思う。

(※実際、今まで何度も事故で死にかけたし、確率的にそもそも産まれるはずの命ではなかったのだろうとよく思う。)

(※ただし、上述のような状況になると使命を諦めるほかない、ということも直感的にわかっている。つまり、自分の弱い自己犠牲的な部分も、ある意味使命の1つなのだと最近は思う。)

それらが良いかどうかを言うつもりはない。ただ、このような部分を自覚し、また修正する気もない以上、自分は家族を持つつもりはないし持てないとも思う。なにかあったとしても、元々の価値観上、無理したり人を傷つけたりだましたりしてまで家族を守りきることもきっと出来ない。

そういうわけで、家族は作らないと決めている。だか不思議なことに上手くできているもので、前述のとおり、自分は人に対しての幸せは願うが、だれとも家族になりたい、と思ったことは一度もない。物心ついたころから、自分はきっと家族と言う意味ではずっと1人で生きていくのだろうと気付いていた。

これからだけではなく元々の家族についても、例外的に1人いるほかは皆家族として成り立っていない。(その1人に対してはなみなみならぬ恩を感じているので、ここでの家族についての考えには反するが、守っていきたいとは思う。それでもやはり、守るために無理をしたり人に害を与えたりすることは出来ない、とも思う。)