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あれはなんだ かたちは無く

考えたこと~離人と乳幼児~

久々に考えた事を家族と少し話した。自分の唯一の*家族は、思考や感性において自分と良く似ている*部分があり、また客観的に見て非常に思考力*もあり、このような人と家族として生まれて会えた事に深く感謝している。

捕捉1.家族は皆死に別れたり生き別れたり縁を切ったりしているので、唯一というわけ。

捕捉2.家族であるなら遺伝的に似ているのは当然なのかもしれないが、感性や波長という点において、それを超えたものを感じる。

捕捉3.家族に対してこのようなことを言うのは失礼なことかもしれないが、世の中には、思考も行為も脆弱だとしか言いようのない人も多いし、それらの人は家族であれ何であれ決して理解できないのだ。

 

もうかれこれ12歳くらいの時からだが、僕は所謂離人症というものを時折経験する。幸か不幸か元の性格が非常に楽観的なもので、自分にはストレスがたまることはあっても、その存在や量を感知することはほとんどない。だから気分や体調の波を毎日こまめに記録して、それが崩れてくるとストレスの影響を考慮しはじめ、なるべく改善に向ける、という風に過ごしている。

ただでさえ日単位で気分も感情もむらがあるうえに、実は数か月周期でもかなり上がり下がりが激しい。今までの経験上、これらが重なってぐんと落ちたとき(気分自体は大して落ちていない。あ、どうもなんか調子が悪い、という程度でしかないからなおさらやっかいだ)に、離人症を発症する。短いときは1日、長いときは3か月以上続く。

離人症というと感じ方はある程度定まっているものの、おそらく厳密には感覚である以上、人それぞれだと思う。自分の場合は、今ここにいるのに、魂や意識がふわっと重力もなく宙に浮かんで、高い所から自分を見下ろしている気がする。そして、ずっと夢の中にいるような感じになって、いっさいの現実感を失う。目は目の前のものを見ているのに、同時にぼやけた視界で自分も見える。手を動かせば思い通りに動くけれど、その指令を出しているのは自分だという感覚が全くない。

はっきり言って、自分と言う人間は、世界の素晴らしさに対して日々感動し感謝する反面、全ては作り物で脳を介してでしか察知できない幻なのだとも思っているから、離人症の時に感じる感覚に対して、辛いと感じたことはない。ただし、感謝する自分もいる以上、その時にはつまり意識と実態がアンバランスになっている。そのことに対して、自嘲にも似たさみしさを感じる。離人症でなければ、意識と実態はほぼ釣り合っているから、どれだけ両端にぶれたとしてもさみしさを感じることはない。さみしいといっても苦しみや痛みはない。ただふっと、ああ、さみしいものだな、と感じる。

さて、原因は往々にして突き止めづらく、離人症からの回復も思い通りにはいかないが、一つ気をつけていることがある。この状態になったときは、(完全にすることは無理なこともあるが)極力人との関わりを絶つようにしている。この状態で接することは失礼だと思うし、何かで余裕がなくなってこの状態になっているのだから、余裕がないと自覚している状態では関わりたくないとも思うからだ。

 

人は脳の多くを活用できていない。活用しようと思ってもできるものではない。しかし活用したときには、きっと何か違った感覚で世界をとらえることができるのだろう。そのことについて、素直に興味深いと思う。

人の乳幼児は生後しばらくは、成人よりずっと多くの脳の部分を使っているのだという。それが色々な形で固定化されたり簡略化されたりして、どんどん機能が眠っていく。いわば、人は生きれば生きるほど脳機能的には退化していっているようなものともいえるのだろう。

古今東西の様々な作品において、乳幼児が絶対的なものや輪廻の象徴として描かれることはそれらのこととも何か関連があるのかもしれない。大昔の人には現代人にはない色々な直感めいた力が備わっていたという。はたして何かをそこに見ていたのかもしれない。

さて、以前から度々書いていることだが、生殖や乳幼児、またそれらに関連するものが僕は全く苦手だ。嫌いというのとは異なるような気がする。何というか、本質的に受け付けられない。気が付いたら無意識に避けている。この理由は色々考えたことはあるけれど、ずっと不明だし今後もきっと不明だ。何か言葉で現しようのない、それでいて絶対の存在感を持って自分の中にずっとある。この感覚が薄れない限りは変わらないのだろう。

この、脳と乳幼児と退化について考えていたとき、僕のこの特徴と何かつながるかもしれない、という事をふいに感じた。以下は、ぼんやりと考えたことでしかないし、ひどく断片的だ。もやがかった森の中で、底なしの沼を進むのに似ている。それでも、何か閃きに似たものを感じたので残しておく。

結論から言うと、乳幼児には二つの側面があるのではないかという事だ。一つは完全に近い生物としての側面で、これに対して僕は嫌悪感は感じない。もう一つは社会的希求ゆえの輪廻としての側面で、おそらくこれに対して僕は嫌悪感を感じる。

人に関わらず、全ての生き物は子孫を残そうとする。このことについて僕はずっと謎に思っている。なぜ、子孫を残そうとするのだろうか?子孫を残してどうするのだろうか?いつか絶対的に滅ぶ世界で子孫を残す意味があるのだろうか?これに対して暫定的に僕の出した答えは、「種族的意識として、世界の様子や変遷を見て、伝えてほしいから」という事になっている。これは今後変わるかもしれないが。

そこで、先ほどの乳幼児に戻るが、生後間もない生き物というものは、非常に無力で庇護されるべき存在で、そして同時に"その種"という定義からもっとも遠く、また様々な能力を持っている。ある意味において、誕生時は社会的に不完成だが生物として完成していて、また成長するに伴い、社会的に完成しているが生物として不完成なのだともいえる。つまり、生物的な意味においては長く生きる意味は見当たらない。多くの生物は、せいぜい生殖が出来る範囲と寿命が重なっている。では、それはなぜか。

人について言えば、どの民族でも自然を崇拝する風習は多くみられる。それは、自然や創造主に対して感じる絶対的な崇拝ゆえだろう。思うに、先ほどの特徴からして、乳幼児はある意味自然や神といった存在に近い。そして、それは徐々に失われていく。そこで、先ほどの僕の結論「種族的意識として、世界の様子や変遷を見て、伝えてほしいから」に加えて、「種族を維持すると同時に、この輝かしい存在、つまり乳幼児を産み出すことにより、この存在を何度も認め種族全体に受け入れることで、絶対的な力と同化しようとした」ということも挙げられるのではないか、とも思うのだ。現代では近代技術が発展し、それらの直感的な感覚が失われているだけで、太古においては確実に感覚的な意味でも民族的な規模においても、無視できない感覚であったのではないか、とも思う。

では、なぜ僕は生殖や乳幼児が苦手なのか。今まで色々な所で話した通り、世界の素晴らしさや生まれてきたことには感謝しているし、自分自身、本能に近い直感で人間を超えた何者かを賛美をもしている。ここで強調したいのは、それは絶対的なものかつ非社会的なものであるということだ。これに対しては理解も出来るし、自分自身世界や大いなる存在というべきものに対して敬意を感じるし、その延長戦として乳幼児をとらえるならば嫌悪感も感じない。つまりはそこなのだろう。

これまで書いたような、種族全体の欲求としての、それを"社会的希求の輪廻"と表現するが、意思は僕には全く理解できない。種族とか大規模な言葉でなく身近な規模であらわすにしても、今まで書いたように、自分は人が幸せならそれでいい。何度も享受したり自分自身に降りかかるように望むことはしたことがないのだ。それは見栄をはっているわけでもなく、修業の末こうなったわけでもなく、これが僕にとっての自然なのだ。加えて以前から書いているように、僕は死を恐れないし、死の危機は常に傍にあったし、死に対して親友のような優しさすら感じる。多くの人は生きている間に生の側面しか見ないが、僕は、生と死は本質は同等であり全てはそこに帰っていくという事を、一瞬たりとも忘れることがない。この感覚だって考えて導いたものでもなく、幼い頃から絶対の直感としてずっと心の中に存在していた。そして多分、この状態は生物としては異常なのだろう。それゆえに、正常な存在であれば、種族的・社会的な希求に基づいて願うはずのもの、あるいはその象徴としての存在たる、生殖・乳幼児が自分は苦手なのかもしれない。それが、今日ふと思いついた閃きだ。自分でもオーバーな考え方だと思うが、こう考えなければ辻褄が合わないし、非常にしっくりくるのだ。

ついでだから書いておくと、本当に大袈裟だし自分に限ったことではないが、何か理由があって生かされている。そもそも産まれなかったはずでここまで生きられなかったはずでもある。そう確信するに至った詳細は(個人情報的な理由で)とても書けないが、間違いなく生かされている、と感じる。その理由は今のところ使命としてうすうす気づいているし、達成しようと決心している。また、これは、一面ものの酷い事件に何度も巻き込まれたり、自我を数回完全に失ったり(同時に再構築もしたし、今では変動しつつももはや本質は揺るがないけれど)、色々嫌になったりしながらも、僕がこれまで人生を投げ出さずに生きてきた理由の1つでもある。(他の理由は、与えられたものを投げ出すのはいけないということと、世界の素晴らしさをもっと見たいからということである。これら3つの理由に気づかなければとっくにリタイアしていただろう。)そしてそれを達成したとき、あるいは(想像したくもないけれど)残念ながら達成できそうにないと確信したとき、そのどちらかが僕の最期なのだろうとはっきりと感じる。