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あれはなんだ かたちは無く

~2014/08/12 夢日記

えっと詳細+図解をレポート用紙に書いたのでそれを見てね。

とりあえず、ゲームでバズーカを撃ったり、暗いような物悲しいようなファンタジーな話を観たり、それらをまとめて新たに映像化したりそれを書こうとしてみたり、

5-6個は見たかな。それから、久々の夢の中の夢。

そうそう、そういえば~11日の夢で久々に夢世界に行ったんだった。残念ながらもう内容は覚えていないのだが、行ったということは覚えている。

~2014/08/06 夢日記

印象的な夢を見た。

 

居間のような場所で、僕は身体の右側面を下にして横になっている。意識はもちろんあるのだが、身体をはなれて斜め上から見おろしているような視点と、本来の視点が同時に見える。夢の中でも離人症を発症しているみたいだ。

腕やお腹の周りにたくさんの、ざっと数えて20匹ほどの子猫が丸まったり僕に身を寄せたりしている。どこからか集まってきたらしい。僕は突き放すでも庇護するでもなく、ただ彼らと一緒にうとうととまどろんでいる。

子猫の数匹は僕の腕を引っ掻いたり噛んだりしてきて痛いのだけれど、悪気はないことがなんとなくわかっているのでそのままにさせておくと、やがておとなしくなる。そういえばどうしてこんな場所で横になっているのだろう、などと思いながらそのままゆるやかに時間が過ぎていく。夢の中でも、起床してからも、なぜかは解らないがとても印象的な夢に思えた。

 

○○○

 

最近の色々の経過。

起床すると喉の痛みが引き、微熱まで下がり、かなり夏風邪の具合は良くなっていた。けれども体調不良は1つ改善して1つ悪化した。精神面は5日の夕方にほぼ復帰したとはいえ、正直まだ心が晴れない。しかしながら、確実に少しずつ浮上しているとも思う。

自分には積極的な面と消極的な面とがあって、今回のきっかけゆえに、今は「人を傷つけることを恐れて消極的な面が強く出ている」状態になっている。ゆっくり本調子に戻ればいいなぁ。

人間関係の基準に対する試み+続・傾向としてのネット系の話

※この投稿は元々別の場所に保管してある。このタイトルの"続"に対する"旧"というべきものはその場所に存在し、このブログには存在しない。前から言っていることだが、このブログは誰に見せるでもなく、自分用の記録なためこれでよい。

※1つ前の投稿の通り、夏風邪をこじらせている。高熱だし、色々重なって正直本当につらいし、頭はぼうっとするし、珍しく(内面も文章も)感情的な方への振れ幅が大きいしと軽く正常ではないが、記録としてみればこれはこれでもいいかもしれない。それに、記事は常に"今"書きたいと思っているから今でないと意味がないし、今意外に書くタイミングもないのだ。

 

 

ここ最近ひっかかっていたことについて、唯一の家族と色々話した。話を聞き、聡明で的確なアドバイスをくれる感謝には、いつもひたすら感謝している。

 

数年ぶりに人間関係で泣いた。

無理をしていることも、辛かったことも、その瞬間までわからなかった。言葉にして、考えが頭の中でまとまっていって、自分なりにこれからどうするかを決めたり自分は自分のままでいる、と答えを出した瞬間、涙が落ちて止まらなくなった。

何がこんなにつらいのか分からない。言葉にもできない。ただ、辛いという感情の塊が押し寄せてきて耐えられない。これは良い時と悪い時があって、良い時は芸術をしているときだ。ただ身をゆだねていると表現していて、あれほど素晴らしい瞬間は無い。悪い時はこのように人間的な感情、しかも言葉にならない感情がどんどん押し寄せてきたときだ。じっと耐えるしかなく、意味もよくわからず、止まるまで待つしかできない。

自分の中には元々理性と感情の両方がmaxで同居しているようなもので、コントロールは出来ないから、言葉などで工夫して平均化できるように気をつけているし、長年の訓練の甲斐があって、自分の望むように理性・論理的にも感情・直感的にも好きなだけミックスして人に"伝える"ことは出来ていると思う(もう一度書くが、自分の中の理性と感情のせめぎあい自体のコントロールは出来ない。そのもみくちゃ状態にあって、どうにか快適に意思伝達出来るようにはなった、という意味だ)。

そして今、とうとう感情が一つの限界に達してしまって、本当にふりまわされている。正確には少し前だ。今は、前述のとおり結論も出て落ち着いてきたので、だんだんいつもの理性と感情がどちらもmaxの状態で、手に手をとって踊っている状態に戻っている(それはそれでやっぱり異常だと思うけど、どうしようもない)。ただ、涙がとまらないから困っている。どうしようね。

 

自分の性格は人以上にバラバラで、時々自分で自分に振り回されるのはこのブログにも度々書いているが、感情の方に天秤がふれすぎてしまった。

もちろん、家族以外の人前では泣くことも考え事を打ち明けることもしないし、少しは経験を積んで、こういう時は進んで接しないか接しても普段以上に言動に気を付けているから、友達には気付かれていないと思う。

ただ、夏風邪でもうろうとするし、普段からテンションがバラバラだとはいえ、ここ数日の最後の方は明らかに色々と精神状況がおかしかったり、(下に書く)解決策をなるべく違和感のない程度にしかしはっきりと明言したので、勘の鋭い人は何か様子が違うことに気付いているかもしれない。気付いていないといいなぁ。

 

○○○

 

いろいろストレスだったんだけど、とある比較的新しい人間関係+風邪によるダウンをきっかけに、人付き合いの基準を変えようかと思った。

暴言とかよっぽど無理な人以外は、"来る者拒まず去る者追わず"だ。しかし、気付かなかったけど、最近ちょっと疲れてる気がする。

結論から言うと、決して嫌いじゃないし悪い人じゃないけど、ちょっとひっかかるとか苦手、と感じた人とは無理しない程度に付き合おうかなぁ、と思う。

合わないと感じるのは事実だし、少しずつ削られていって気力を随分と消耗していることに気付いた。そこまで無理することないんじゃないの、って。

ただ、あくまで嫌いではないし、自分を合わせてるとも思わない。今回の件に限らず、基本的に自分のやり方で動くが、相手への思いやりを忘れない上で誰に対して付き合うのも今後もきっと変わらない。ただ、今回ガタが来るまで気付かなかったように、気力は消耗するし、そもそも自分は気まぐれな性格であるがゆえにただでさえ毎日同じ人と接するのは避けたいと思うのだ。それらの面からしてもストレスだから、上手いこと適切な距離を保つよう自分からよく気をつけようと思う。

幸いにも、自分は元々気まぐれな性格で、時に性格自体が複数あるようで、そして上にも書いた通り理性と感情が常にmaxでせめぎあっている。この性格だからこそ、"どう動くかは風任せ、その瞬間までわからない"というのがデフォルトだ。この性格や傾向については、ある程度周囲にも知られていて、また幸運なことにそれを好いてくれている人までいる。彼らには本当に感謝している。ということで、この自分の生まれ持った性質をむしろ活かして、無理しないような立ち位置を模索していきたい。

 

自分の好きな人嫌いな人の基準はある点においてはっきりとしている。その詳細な説明はまたいずれの話として、このきっかけになった人もそうなのだが、自分はいわゆる掲示板系の人が苦手だ。決して存在も性格も否定をする気はないし、長所ももちろんあるのだが、自分には合わない。一緒にいて苦しい。

彼らのほとんどは、主体性と思いやりに欠けているうえ、独特の粘着質な性質がある。また総じて言えるのは、色々な意味で、自分のことでいっぱいいっぱい、という印象が強いのだ。その結果として、簡単に流されたり人を攻撃したり自己主張を繰り返したりする。そういう面は理解できないししたいとも思わない。

自分は、自立していてかつ視野の広い人間が好きだ。だからこそ、その真逆たる存在である掲示板系の雰囲気の人が苦手だし、ある程度――自分にとって苦手だと判断するラインを超えていれば、たとえ無意識下でも、どこかひっかかりを感じるのもそれが理由なのだろう。逆もしかり。一見掲示板系の言葉を引用しているなど紛らわしくても、それは一種の言葉遊びとしての用途であり、本人は自立していて視野が広くて思いやりに満ちあふれた人間もまた存在する。そういった人は自分はもちろん好きだ。そしてこの場合もなぜか、安心感にも似た直感で、その本質を即座に見抜く。いや、見抜いてしまう。このある意味動物めいた自分の直感は的確すぎて時々悲しいけれど、結局のところ自分の声が聴けるのは自分だけなのだとよく思う。

さて、多分これもまたひとつの偏見なのだろうけれど、人の性格に何か少しでもひっかかったら、無理はしないことにしよう、と決めた。数年前に、"自分が自分であるために、生きたいように生きる"のを決意した同様に。残念だが、仮に無理をした結果、今現在のように毎回色々ガタがきてはやっていけないだろう。ただし、これもこれまで同様、誰に対しても否定はしないし、敬意と博愛の念を持って生きていきたい。

 

と色々話したり考えたりして自分の考えや立ち位置を明確に再確認したのだが、途中でふと怖くなった。人の性格や関わりというものは相対的で社会的なものだから、自分より落ち着いていたり口数の少なかったりする人には、自分も彼らにとってストレスになっているかもしれない、ということだ。

それは人の目が気になるという意味では全くない。誰にどう思われようが構わない性格だから。では何が恐怖かというと、人を傷つけたり疲れさせたりしていないだろうか、ということだ。

今まで色々あって考えた結果、上にも書いたが、自分を殺さないために、言いたいことは言うしやりたいようにやって生きている。しかし、人を傷つけたり悲しませたりするのは嫌だ。自分がそうなる以上に、他人にそうさせるのは嫌だ。それは、人から自分が嫌な人だと思われたくないからではなく、人を傷つけるということが本当に本当に罪深い行為だと思うからだ。

しかし、そればかり考えていると何も話せなくなってしまうのもまた事実。そこで、1.感謝と尊敬の念を忘れずに相手に接する。2.相手の様子に注意を払い、どの程度の感性を持つ人なのかをなるべく正確に把握する。3.もし傷つけたかもしれないと思われる場合には、速やかに謝罪する。心から反省し、また、その意思を伝える。の3つの事に日々気を付けている。それでも反省することももちろんある。

自分はまだまだ至らぬ人間で、時にこうして迷い考えることも多い。ここで、決して自分を正当化するつもりはないのだが、ここで書いてきたように、思いやりを忘れずにいたい、人を傷つけたくない、と自覚できるだけは、まだましな人間なのだろう、と時々思う。

夏風邪など

夏風邪を絶賛こじらせている。3日~4日が(多分)ピーク。

気が向いたら、経過観察や初期症状のメモを写すつもり。

 

高温による血圧低下・台風に伴う気圧性頭痛・夏風邪・心労・胃腸の疲労、と色々重なってさすがに身体がきつい。

どれも1つずつならたいしたことがないし、トータルで見ても中高生の頃の体調よりはずっとましなのだが、ここ近年は好調だったこともあり大分きている。

価値観の根本的な部分

あるとき、自分の価値観は一般的なそれから逸脱しているという事に気が付いた。それなりに自分の事は好きであるが、この自分の価値観が良い・悪い・正しい・正しくないはいっさい考えずに、観察の対象として興味を持った。そうして分かったことや推測などを、誰に見せるでもなくただ記録としてここに書いている。

どちらかといえば夢日記の方が中心だが、それだって少し夢の捉え方が変わっているだとか、そのような構造はどうも頭や価値観と関わりが深そうだとか考えているからだ。

さて、毎日色々あるし様々な人々の価値観に触れてみるのだが、もう何度も考えた事だが、客観的に見てやはり自分の価値観は一般的ではない。それがなぜなのか、だからどうなるのかには興味がない。こうできていてそれに自分が納得している以上変える気もないし変えられる気もしない。今後少しずつ変わっていくのならそれもまたいい。価値観にも色々あるけれど、これまでの観察で特に根本的だと思ったことなどを改めて記録しておこうと思う。

 

捕捉

※色々なことがあったり考えたりして、根本的な価値観はもともと幼少から見え隠れしていたものの、高校生の頃にはほぼ方向性が定まり、成人後まもなく強固になった。

※また、これらの価値観は、無理に「こうでなければならない」と自分が自分に課したものではない。あくまで自分らしく生きて、自分が自然に心から望んでいる事でしかない。前述のように価値観の構成が未熟な頃は迷う事もあったが、今は全くそのような事はないし、正解か不正解かを気にすることもないから悩むという事は一切ない。

 

○生き方について(自他問わず)

自然体で過ごせばいいと思っている。だからといって人を傷つけていい理由になるわけではないしなるべく悲しい思いはさせたくないが、人と上手くやるために自分を殺したり無理してまで生きる必要もないと思っている。

面白い人、面白くない人、弱い人、強い人、実際に自分の周囲には様々な友人がいる。中には社会的・人間的に良くないとされる人もいる。だがどの人にも必ず自分の惹かれる面がある以上仲良くしているし、自分の友人に価値観を押し付ける気もない。そのままでいい。逆に言えば、押し付けられる気も指示される気もない。その時は面倒だなぁと思うが、不思議なことに、そういう人々はやがて自分から離れていく。それが良いことかどうかには興味がない。ただそういうものとして眺めるだけだ。そういう点においては、自分は人間好きであると同時に人間嫌いでもあるのかもしれない。

では、極端な例であるが、その結果多少「悪」とされる一面があったとしても、これを責める気はない。それは自分の信条の1つが、罪を憎んで人を憎まずというものだからというのと、結局悪と認識したりそこからどうするかは本人の問題であって、それらと他者の関わりには直接の関連がないからだ。つまり、具体例を出すと、自分は彼らに対して変わらず接する。

あくまで自分の場合では、来るもの拒まず去る者追わず。このように生きた結果誰かが来たり離れたりしていってもそれはそういうものなのだと思ってどうもしない。

 

○他者との関わりについて1

人として尊敬できる人は皆好きだし、どのような人であれ生命は尊いと思う。

結婚は今一つよくわからない。素敵な人が多くて1人だけ愛することはできない。素敵な人以外でも、前述の生命への敬意と、宇宙への畏れから、自分は博愛主義者であるとよく思う。

また、その主義とも関連することであるが、自分は人が幸せならそれでいい。見返りも求めなければ、自分を愛してほしいとも思わない。

 

○他者との関わりについて2

よく人々は他者と自己とを比較して、両者の上下を決めたがる。自分はこういうことはしないし理解もできない。

その根底にあるのは、「自分は自分、他人は他人」という考えだ。そもそも全く条件が違うのだから比較ができないし、何らかの基準で比較したとしても、それでどうするというのだろう。一部の人は優越感や劣等感を味わったりするというが、それは自分の生き方に少しでも不安のある人がすることだ。自分の生き方に不安があっても別に良いとは思うが、それらの発想や行動には理解も共感もできない。

ただし、自分の中に、誰と比べるわけではなく「理想的な人間像」というものはある。つまり、目標は常に自分の中にある。あくまで自分は今の自分を気に入っているし生き方も納得しているが、一般的に見て不得意な分野があり、それを克服することで人のためになるという部分が多いので、出来ればそれを克服するよう頑張ってみようとは思っている。これに対して本気に考えているが、絶対に達成しなければならないものとは思っていない。

人が社会で生きる物である以上、他者からの評価が絶対だと考える人が多いが自分はそうは思わない。結局他者からの評価など曖昧なものだし、それを認めた時点で、その他者の判断や評価もまた他者の他者であるのだ。それは実体のない悪夢のようにも見える。ならば結局自分がどれだけ自信を持てるかという絶対的な評価の方が明確だし実体もある。絶対的な自信を持って主体的に動く方が物事にたいして受容性が高いとも思う。その結果状況が良くなったり悪くなったりしても、それはそのときだ。思うに、(特にアジア圏の)人々は極端に周囲の眼を気にしすぎていると思う。

 

○家族について

自分は精神的に強い部分もあれば弱い部分もあると自覚している。強いところは、解決のためなら争いをも受け入れるという部分や、多少の不利益があっても(あくまで心からの願いとして)自然体で振る舞うという部分だ。一方弱いところは、傷つけるという事に極端に敏感で虫一匹さえ殺せなかったり、仮に自分の命で世の中を救えるだとか誰かが死ななければ誰も助からないというような状況だと、自分から命を落とすだろう確信がある部分だ。

また、精神的な部分とは異なるが、自分は直感にも似たある使命感を持ち、それを達成することが人生の最終目標なのだと感じる。ただの気のせいかもしれないが、明らかに何者かの意思を感じるし、それを成すために生まれて生かされているとも思う。

(※実際、今まで何度も事故で死にかけたし、確率的にそもそも産まれるはずの命ではなかったのだろうとよく思う。)

(※ただし、上述のような状況になると使命を諦めるほかない、ということも直感的にわかっている。つまり、自分の弱い自己犠牲的な部分も、ある意味使命の1つなのだと最近は思う。)

それらが良いかどうかを言うつもりはない。ただ、このような部分を自覚し、また修正する気もない以上、自分は家族を持つつもりはないし持てないとも思う。なにかあったとしても、元々の価値観上、無理したり人を傷つけたりだましたりしてまで家族を守りきることもきっと出来ない。

そういうわけで、家族は作らないと決めている。だか不思議なことに上手くできているもので、前述のとおり、自分は人に対しての幸せは願うが、だれとも家族になりたい、と思ったことは一度もない。物心ついたころから、自分はきっと家族と言う意味ではずっと1人で生きていくのだろうと気付いていた。

これからだけではなく元々の家族についても、例外的に1人いるほかは皆家族として成り立っていない。(その1人に対してはなみなみならぬ恩を感じているので、ここでの家族についての考えには反するが、守っていきたいとは思う。それでもやはり、守るために無理をしたり人に害を与えたりすることは出来ない、とも思う。)