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あれはなんだ かたちは無く

人間関係の基準に対する試み+続・傾向としてのネット系の話

※この投稿は元々別の場所に保管してある。このタイトルの"続"に対する"旧"というべきものはその場所に存在し、このブログには存在しない。前から言っていることだが、このブログは誰に見せるでもなく、自分用の記録なためこれでよい。

※1つ前の投稿の通り、夏風邪をこじらせている。高熱だし、色々重なって正直本当につらいし、頭はぼうっとするし、珍しく(内面も文章も)感情的な方への振れ幅が大きいしと軽く正常ではないが、記録としてみればこれはこれでもいいかもしれない。それに、記事は常に"今"書きたいと思っているから今でないと意味がないし、今意外に書くタイミングもないのだ。

 

 

ここ最近ひっかかっていたことについて、唯一の家族と色々話した。話を聞き、聡明で的確なアドバイスをくれる感謝には、いつもひたすら感謝している。

 

数年ぶりに人間関係で泣いた。

無理をしていることも、辛かったことも、その瞬間までわからなかった。言葉にして、考えが頭の中でまとまっていって、自分なりにこれからどうするかを決めたり自分は自分のままでいる、と答えを出した瞬間、涙が落ちて止まらなくなった。

何がこんなにつらいのか分からない。言葉にもできない。ただ、辛いという感情の塊が押し寄せてきて耐えられない。これは良い時と悪い時があって、良い時は芸術をしているときだ。ただ身をゆだねていると表現していて、あれほど素晴らしい瞬間は無い。悪い時はこのように人間的な感情、しかも言葉にならない感情がどんどん押し寄せてきたときだ。じっと耐えるしかなく、意味もよくわからず、止まるまで待つしかできない。

自分の中には元々理性と感情の両方がmaxで同居しているようなもので、コントロールは出来ないから、言葉などで工夫して平均化できるように気をつけているし、長年の訓練の甲斐があって、自分の望むように理性・論理的にも感情・直感的にも好きなだけミックスして人に"伝える"ことは出来ていると思う(もう一度書くが、自分の中の理性と感情のせめぎあい自体のコントロールは出来ない。そのもみくちゃ状態にあって、どうにか快適に意思伝達出来るようにはなった、という意味だ)。

そして今、とうとう感情が一つの限界に達してしまって、本当にふりまわされている。正確には少し前だ。今は、前述のとおり結論も出て落ち着いてきたので、だんだんいつもの理性と感情がどちらもmaxの状態で、手に手をとって踊っている状態に戻っている(それはそれでやっぱり異常だと思うけど、どうしようもない)。ただ、涙がとまらないから困っている。どうしようね。

 

自分の性格は人以上にバラバラで、時々自分で自分に振り回されるのはこのブログにも度々書いているが、感情の方に天秤がふれすぎてしまった。

もちろん、家族以外の人前では泣くことも考え事を打ち明けることもしないし、少しは経験を積んで、こういう時は進んで接しないか接しても普段以上に言動に気を付けているから、友達には気付かれていないと思う。

ただ、夏風邪でもうろうとするし、普段からテンションがバラバラだとはいえ、ここ数日の最後の方は明らかに色々と精神状況がおかしかったり、(下に書く)解決策をなるべく違和感のない程度にしかしはっきりと明言したので、勘の鋭い人は何か様子が違うことに気付いているかもしれない。気付いていないといいなぁ。

 

○○○

 

いろいろストレスだったんだけど、とある比較的新しい人間関係+風邪によるダウンをきっかけに、人付き合いの基準を変えようかと思った。

暴言とかよっぽど無理な人以外は、"来る者拒まず去る者追わず"だ。しかし、気付かなかったけど、最近ちょっと疲れてる気がする。

結論から言うと、決して嫌いじゃないし悪い人じゃないけど、ちょっとひっかかるとか苦手、と感じた人とは無理しない程度に付き合おうかなぁ、と思う。

合わないと感じるのは事実だし、少しずつ削られていって気力を随分と消耗していることに気付いた。そこまで無理することないんじゃないの、って。

ただ、あくまで嫌いではないし、自分を合わせてるとも思わない。今回の件に限らず、基本的に自分のやり方で動くが、相手への思いやりを忘れない上で誰に対して付き合うのも今後もきっと変わらない。ただ、今回ガタが来るまで気付かなかったように、気力は消耗するし、そもそも自分は気まぐれな性格であるがゆえにただでさえ毎日同じ人と接するのは避けたいと思うのだ。それらの面からしてもストレスだから、上手いこと適切な距離を保つよう自分からよく気をつけようと思う。

幸いにも、自分は元々気まぐれな性格で、時に性格自体が複数あるようで、そして上にも書いた通り理性と感情が常にmaxでせめぎあっている。この性格だからこそ、"どう動くかは風任せ、その瞬間までわからない"というのがデフォルトだ。この性格や傾向については、ある程度周囲にも知られていて、また幸運なことにそれを好いてくれている人までいる。彼らには本当に感謝している。ということで、この自分の生まれ持った性質をむしろ活かして、無理しないような立ち位置を模索していきたい。

 

自分の好きな人嫌いな人の基準はある点においてはっきりとしている。その詳細な説明はまたいずれの話として、このきっかけになった人もそうなのだが、自分はいわゆる掲示板系の人が苦手だ。決して存在も性格も否定をする気はないし、長所ももちろんあるのだが、自分には合わない。一緒にいて苦しい。

彼らのほとんどは、主体性と思いやりに欠けているうえ、独特の粘着質な性質がある。また総じて言えるのは、色々な意味で、自分のことでいっぱいいっぱい、という印象が強いのだ。その結果として、簡単に流されたり人を攻撃したり自己主張を繰り返したりする。そういう面は理解できないししたいとも思わない。

自分は、自立していてかつ視野の広い人間が好きだ。だからこそ、その真逆たる存在である掲示板系の雰囲気の人が苦手だし、ある程度――自分にとって苦手だと判断するラインを超えていれば、たとえ無意識下でも、どこかひっかかりを感じるのもそれが理由なのだろう。逆もしかり。一見掲示板系の言葉を引用しているなど紛らわしくても、それは一種の言葉遊びとしての用途であり、本人は自立していて視野が広くて思いやりに満ちあふれた人間もまた存在する。そういった人は自分はもちろん好きだ。そしてこの場合もなぜか、安心感にも似た直感で、その本質を即座に見抜く。いや、見抜いてしまう。このある意味動物めいた自分の直感は的確すぎて時々悲しいけれど、結局のところ自分の声が聴けるのは自分だけなのだとよく思う。

さて、多分これもまたひとつの偏見なのだろうけれど、人の性格に何か少しでもひっかかったら、無理はしないことにしよう、と決めた。数年前に、"自分が自分であるために、生きたいように生きる"のを決意した同様に。残念だが、仮に無理をした結果、今現在のように毎回色々ガタがきてはやっていけないだろう。ただし、これもこれまで同様、誰に対しても否定はしないし、敬意と博愛の念を持って生きていきたい。

 

と色々話したり考えたりして自分の考えや立ち位置を明確に再確認したのだが、途中でふと怖くなった。人の性格や関わりというものは相対的で社会的なものだから、自分より落ち着いていたり口数の少なかったりする人には、自分も彼らにとってストレスになっているかもしれない、ということだ。

それは人の目が気になるという意味では全くない。誰にどう思われようが構わない性格だから。では何が恐怖かというと、人を傷つけたり疲れさせたりしていないだろうか、ということだ。

今まで色々あって考えた結果、上にも書いたが、自分を殺さないために、言いたいことは言うしやりたいようにやって生きている。しかし、人を傷つけたり悲しませたりするのは嫌だ。自分がそうなる以上に、他人にそうさせるのは嫌だ。それは、人から自分が嫌な人だと思われたくないからではなく、人を傷つけるということが本当に本当に罪深い行為だと思うからだ。

しかし、そればかり考えていると何も話せなくなってしまうのもまた事実。そこで、1.感謝と尊敬の念を忘れずに相手に接する。2.相手の様子に注意を払い、どの程度の感性を持つ人なのかをなるべく正確に把握する。3.もし傷つけたかもしれないと思われる場合には、速やかに謝罪する。心から反省し、また、その意思を伝える。の3つの事に日々気を付けている。それでも反省することももちろんある。

自分はまだまだ至らぬ人間で、時にこうして迷い考えることも多い。ここで、決して自分を正当化するつもりはないのだが、ここで書いてきたように、思いやりを忘れずにいたい、人を傷つけたくない、と自覚できるだけは、まだましな人間なのだろう、と時々思う。