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あれはなんだ かたちは無く

塵なす同時性

人が信じるかどうかは問題ではないが、度々不思議なことが良く起こる。別段特別な場合のみに起こるのではなく、むしろ、全ての時間と空気に潜んでいるような類のものだ。大抵の場合、それらは全く関わりをもたない何者かであるかのように扱われているが、僕は親しみを込めてこれらを邂逅と呼んでいる。書き出せばきりがないし、それらを悉く何か大事なものだというように言う気はないが、確かに存在する各々の日常であることに違いない。

 

今日行き合わせた邂逅

それは霧雨の降る、少し肌寒い昼下がりのことだった。時刻は1時を半分ちかく回ったところで、居間の床に座り込んで読書をしていた。読んでいたのは珍しく小説で、台詞の意味するところを浮かばせながら、紙面に広がる言葉を追っていた。すると、何の前触れもなく、風にのって口づけがやってきた。まるで伝言のようでもあったし、渦のようでもあった。それは二度たたずんでいたが、最後にはゆっくりゆっくり遠のいていって、いつ消えたか分からないほどだった。

Aがやってきたのだ、とすぐに気付いた。事実、その雰囲気はたえまなく傍にあって、心に入り込んできたかのようだった。訪問の理由はわからないし、考えることもしない。ただふいにやってきて、ここにいた、それだけで十分なのである。決して、その瞬間に、失った記憶のことを懐かしむだとか、逆に刹那的帰結を思い浮かべたのではない。そうではなくて、永遠のうちの一つの窓辺にあるということを感じたのみである。つまり、形式がどうであれ、今は彼方、多数の世界があるなかで可能性が降りてきて、その証をのちに残すということを直観的に感じたのである。

僕はなにも永遠に生きたいわけではない。だからこそ、縦横無尽に走る何かの情報のなかに息づく魂を見つけたとき、自然のなす力に驚くばかりである。それは奇跡で、恐怖で、また常態でもある。さあ、足跡を尋ねてみれば、たちまち深く降りて行って、「黄昏」をその目に見ることができるし、それが泡のように重なりはじける様子をも見ることができる。それは何か神話のようでもあるし、音楽のようでもある。そうするうちに、このこと自体が、僕の言う邂逅の証明であるかのように思われてきた。確かに僕らは複数の世界に存在して、それが自然だというように。

ところで、Aのことを少し記述せねばなるまい。Aというのは数年前に死んだ僕の同志である。この人に関わる日々はなぜか幻のようでもあり、実際幻でもあるのだと思う。また、彼と僕とは同時に存在できない存在だった、というのが僕の見解だ。にもかかわらず、ひょっとすると現在も、共に過ごしているというのはそれ自体がすでに邂逅なのである。