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あれはなんだ かたちは無く

気付けなかった会話のルール

程度の差はあれど、アスペルガー一般に頻繁に言われているのは、「社会上のルール」や「暗黙の了解」になかなか気付けないということだ。もちろん、人によりそれらを読み取り、上手く社会に適応している当事者もいるが、それでも一般の人に比べて、全てのルールを網羅することはとても難しい。

時には、努力してルールを読み取っているつもりが実は全くそうではなく、結果として周囲から完全に浮いてしまっていることも多々ある。(空気が読めない、人に合わせられないという特徴はここからくるところも大きいのかもしれない。)(ちなみに、そういう頑張るアスペルガーは自己評価が低くなったり、アダルトチルドレンになったりすることが多い。)

 

さて、今日ふとした会話がきっかけで、久々にこれらの「ルール」の一つに気づくことができた。それは、「人は、会話している相手に理解してもらいたいと思うなら、相手に理解できるように話すべきだ」ということである。

正直に言うと、どうして相手が理解できるように話さなければならないのか理解できない。相手の知らない言語で話すわけでも、わざと難解に話すわけでもないのだから、聞き手が話の内容を理解するべきである。なぜなら、逐一説明することで話が逸れたり、効率が悪くなったりする危険性が高いからだ。早い話が読書と同じで、理解できないなら受け手が即座に調べればよいのだ。……というように思っていたし、今もたぶんそう思っている。

しかし、何度も話が通じなくなったり、話を逸らされたりした挙句、「理解してもらおうと思っていないんじゃないの」、というような事を聞かれた。「そう思われる理由は話し方にあるのだとすれば、理解できるように話す必要があるのか」と問うと、当然だという答えが返ってきて、認識の隔たりの大きさに愕然とした。そして、そうか、これが会話における暗黙のルールの一つなのだな、と納得した。

 

僕はどうも会話が苦手だ。これまでずっと苦手で、それは単に話術というものがないのだと思っていたが、このルールのことに気づいた今、話術の問題ではないのかと思う。そして、以前から会話において孤立していた理由に近づいた気もする。

決して会話が嫌いなわけではない。ただ、適当なことを言って笑わせようにも一つひとつ気構えてしまう。もともと僕は、ただその場を楽しむだけの会話というのが苦手だ。というか、できない。何を話していいのかわからないし、内容は曖昧だし、楽しくないから笑わないでいると妙な表情を向けられる。その一方で、議論という会話は好きだ。目的があるし、筋道立てて話さないと議論が成り立たない。(もっとも、そういう会話は全体から見て少ないのだろうけれど。)

 

ここで、「これまで相手の理解できるように話していなかった」および、「自分の理解できることは相手も理解できる」という認識は、改めて、アスペルガーの特徴そのままだな、と思うのである。

より具体的に言うと、これらの認識から、「アスペルガーの会話は一方的」であるといわれるのだと思う。アスペルガー当事者側から換言すると、「相手の理解できるように話す必要を感じない」ということである。もっと言えば、「会話相手は会話に意義を求めているし、自分の言うことは即座に理解されるべきで、理解されないのは相手の認識不足」と思っているのかもしれない。そして、それは一般の人からすれば、重苦しく、傲慢で、しばしば相手にしていられない内容なのかもしれない。

そういえば、僕の主治医は僕の「会話は一般的ではなく、まるで機械のようだ」と評したことがある。その時僕は、論理的に矛盾がないから問題はないと答えた。それに対して、主治医はそういう問題ではないとかかんとか、もごもご言っていた。(詳しく聞いてみたが、曖昧にはぐらかされてしまった。)

ところで、僕のブログは口語で書かれている。(これでも、かなり力を抜いて書くように努力をしている。)つまり、普段の会話での語彙・内容・構成などはおよそこのブログと大差ない。そのことも一般的ではないんだろうか?