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あれはなんだ かたちは無く

異常点 / 波と光を想う・または宗教 / 果て無き道

《異常点》

自分の事は人間として異常なのだと思うことがよくある。それは昔から度々頭をよぎることであった。だからといって悲しんだり嘆いたりするわけでもなく、ただ納得するだけであるから、余計に質が悪い。

僕は死を恐れない。なぜならば生きる者は等しくいつか死ぬことが定められているということが昔からひどく自然だからだ。というよりも、僕は、全ては仮の姿だと思っている。宇宙でさえもいつか消える。死とは、個々の意識を離れて全に帰る、ということなのだと思っている。

事実、死は常に傍にあった。そもそもをたどれば、僕はまず授かる確率の低い生命だったらしい。(循環において、生の始まりはその終わりと近い。)そして、幼少から、身体を壊すと、食物も水も拒否していたらしい。この子供は生きることを拒否している、と医者に告げられたこともあるらしい。今でも、自分ではどうにもならない理由で、年に一度は死ぬか生きるかの瀬戸際まで体調を崩すことがある。今度こそ死ぬかな、と思いはすれ、それは全てがある場所に戻っていくことだから、やっぱり全く怖くないのである。

僕の意見では、世の中の人が死を怖がるのは、形なき物への畏怖とか、生や物への執着とか、死ぬまでの痛みや苦しみなど、結局間接的なことが理由であるように思える。むしろ、多くの人々は、目に見える物や、生という瞬間でのことしか見ておらず、いつか死ぬということを本当に理解できないまま死んでいるのではないか、とさえ思ってしまう。ちなみに、これは本当に不思議なことであるが、そのようにして新だ魂は、全に帰る前にまた物質世界に戻っていくような気がする。所謂輪廻は信じていないし、勿論識者でもない。直感に近い部分である日思ったことである。どうしてそう思うのかは不明。

さて、僕はどうして死が怖くないのだろう、と考える。まず第一には、多分僕は色々な理由で死に近い存在なのだろうと思う。それは否定でも自嘲でも悲しみでもなんでもない。預言者やイタコなどが他の何かに近いのと同様にして、僕は死に近いのだろう。事実、常に死はすぐそばにあって、時に安らぎのもとであって、また生き物自身なのだという気さえする。少し表現がおかしいが、食事をして活力を得るように、僕は死を想い活力を得ることもある(波と光を想う・または宗教、で後述)。そして第二に、僕は畏怖も執着も少ないのだと思う。僕も人間だから、おそらく皆無ではない。しかし、多分ほとんどないに等しい。僕は昔から良くも悪くも精神的なものを最重視してきたし、科学ではどうにも説明できない現象にも遭ってきた。そして、後述するが、源泉としての神の存在を信じている(波と光を想う・または宗教、で後述)。また、僕はこれまで3度、全てを失う経験をしたことがある。初めは辛いものであったが、最後には季節が移ろうのと同じくらいこれは自然なことなのだ、と理解した。表面的なレベルで悲しむことは色々あるが、深層の部分は常に穏やかで、波のない海のようなものだ。

こういった僕の性質は、多分生き物としては異常なのだと思う。ついでに付け加えると、僕には生命を残す気もない。理解もできない。それもまた生き物として異常である。何がおかしいのか、遺伝子か、精神か、ただの空想か、本当に何かが違うのか、それを解明する術はない。ただ淡々と自己分析をするだけである。

 

《波と光を想う・または宗教》

(僕の考え方の基盤を成す、波、光について。それと宗教観。根を詰めて書くと非常な長文になりそう。今日は気力がないので、ピンポイントで要点を押さえる。)

僕は思考することが好きだ。哲学と言っても差支えない。また瞑想と言っても差支えない。何かを筋道立てたり立てなかったりしながら考え、傾向をつかみ、思想を深める。大抵の場合は、人間の使命とは何か、宇宙とは何か、共通意識はあるのか、といったテーマが多い。チェスの定石や、数学問題の証明を考えることも多い。昔まだ色々なことに執着していたときは、孤独とは何かとか、感情とは何かということも考えていた。思考したところで当然、何の役にも立たないし、何かを求めているわけでもない。楽しんだり苦しんだりしながら考えて、一応でも納得する何かに行き当たるということが嬉しいという性分なのである。

さて、この性分と20年以上も根気よく付き合い、またその間人生にもいろいろなことがあった。信じていた物を失い自我が崩れかけることもあるし、存在するという意味での物質的にも苦労したこともある。それらの経験とも付き合いつつ、粘り強く思考をエンジョイしてきた結果として、僕の信念や価値観というものも生まれた。それは何度も変わったり崩れたり鍛錬されたりして今に至る。しかし、それはあくまで僕一人のものだ。誰かと共に、自分たちの信念について議論することは楽しい。だが、僕の考え方を誰かに強要する気はないし、この偏見が真理だと思うこともない。ただ、僕の根底を形づくっているのは確かだ。

初めに、僕は無宗教者という類の人間があまり好きではない。なぜならば、無宗教者は、自分の思う信念というものが固まっておらず、流されやすい人間なのかもしれない、と考えるからだ。(これは僕の単なる性格だが、依存・干渉・支配を好む人間は嫌いだ。流されやすい人間はしばしば、これらを好む。)また、信念が固まっていない、自覚していないということは、自分の偏見を知らないという事でもある。自分の偏見を知らずに、無宗教と言う名の博愛を掲げるとしたら、とんだ矛盾である。そういうものが僕は苦手だ。さて、では宗教とはなんだろう?それは色々な意味合いがあると思う。秩序、道徳、心の支え、など。どれがどれに属し、または属すべきかということは興味がない。それは人により変わるからだ。僕は無宗教者があまり好きではないが、宗教を信じる者が皆好きなわけでもない。宗教が全てと思いこんでいる人や、見返りを求めて信仰している人は好きではない。たとえば、経典の内容を深く考えもせず救いが来ると信じる人、物質的なことが関わっているのに気付かず勧誘する人、来世で安寧が約束されているから信じる人、などである。それらはただの自己愛である。自己愛は否定しないが、度が過ぎると見苦しい。

では僕の思う宗教とは何か。自分という精神的なレベルの存在を、良くも悪くも形づくっているもの。辛くても真実を追求することをやめず、また希求する心。見返りを求めず、ただ絶対的な力を敬う姿勢。それらが宗教であると僕は思う。だから、神の名前がどうだとか、本当の神は誰だとかいったことには興味がない。それらはすべて、人間の悪趣味な部分が、争いを生み出すために考え出したことに過ぎない。正直なところ、色々な本を読み考え体験した結果、あらゆる宗教、占い、祈りの類は元をたどれば同じものを信仰しているのかもしれない、と長い間考えている。

僕も宗教を信仰している。ただし、今いったような意味において、だ。一応長年のクリスチャンであるが、正直にいって真面目なクリスチャンとは言えない。神というより運命を決めるすべての源泉である何か、を信仰しているのだ。キリスト教では占いが禁止されているが(他人のために、同時性という力に基づいて)占いをする。悪魔を嫌っているが、人間に影響するという意味では天使も悪魔も同じだと思っている。来世は無くてもいいと思っている。ではなぜクリスチャンなのかというと、僕はキリストの博愛の精神を尊敬しているのだ。しかし、自分でも少し方向性が違うことに気が付いているので、この乖離が酷くなれば別の道を模索するつもりだ。

信仰している宗教、または価値観は、これにとどまらない。基底に存在するものに、「波」と「光」というものがある。僕は長年の共感覚との付き合いから、物事を5感に置き換えて理解する癖がある。だから、多分あくまでイマジネーションの域を出ないのだろう。

「波」は、人間を取り巻く状況であり、精神世界と物質世界をなだらかにつなぐものだと考えている。またそれは感情でもある。人間の感情は、波が寄せては返し、連なり、沈む様に良く似ている。もっといえば、生と死と性も波に似ている。これらはどれも、(決して悪い意味ではなく)底知れぬ昏さを持っている。これらが不意にゆらぎ、波として現れるように思えるのだ。これらの波は、不安定に人間を襲う。人間は決して肉体を離れられない。そればかりか、真偽はどうであれ、精神が肉体に宿っていると思うあまりに、肉体の外や普遍的な意識に考えを向けないことが多くなっている。こういった外の精神と深くかかわりながら、物質である人間に影響を及ぼし、また直接的に生を与えるもの、それが波である。ちなみに、人間は生と死と性のどれかを享受し、どれかを恐れることが多いように思う。

「光」は、所謂神のようなもの、あるいは全てが生まれ、消え、一つに戻る何かだと考えている。光というと、闇に対する光のように、プラスの意味としてとらえられがちだが、僕のいう光は決してそうではない。例えるならば、水平線の彼方に見える遠くからの光、太陽や核が爆発したかのような光である。なぜ光なのかというと、以前、全てが存在する何かや、芸術における源泉たる何かについて瞑想していると、あたり一面の光が見えたのである。それは懐かしく美しい光景であった。ちなみに、光の外ではなくすでに中なのであるのが印象的だった。生命の意識が生まれ、意識が戻り、また創造を促進する何か、それらは僕にとってすべて同じなのだ。それは何かの意識でも観測でもなければ、物質でも無でもない。すごく遠くにありながら、ごく近くにも存在する。それは、絶対的な力。この世そのもの。僕が死を恐れず、またそれを糧としえるのは、それらは本来同一だったからかもしれない。また、僕は芸術を愛するが、それは誰のためにでも誇るためでもなんでもない。頭いっぱいにビジョンが浮かび、それを外に出さなければ気が狂ってしまいそうだから芸術をするしかないのだ。こういった直感を前にして、僕はただただそれを認め、畏怖し、称える。これが僕の信じる一つの宗教である。

 

《果て無き道》

前述のように僕には執着はほとんどない。生きづらさはある。昔3度自殺を試みたが、どれも未遂に終わった。その時に思ったのは、僕は生かされている、ということである。執着はないものの、今でも生きているということがたまにとても苦しい。その理由は、何かに傷つけられたことでも苦しめられたことでもなく、ただ身体を持って意識を持って生きているということがひどく苦しく悲しくなることがある。絶えずあふれる芸術的なビジョンや共感覚は楽しいものの、それらに取りつかれて別の何かになるのではないか、と思うことも多い。確かにここに存在しているという感覚が無くなることもある。人が家に帰るように、僕も早く全たる光へ帰りたいのだが、なかなか許されないらしい。死んだらそれで終わり、と思うが、生きていることも同様に虚無に等しい。

昔はこれらの考え方は精神病かもしれないと思っていたが、どうも違うようだ。つい最近になって、僕はアスペルガー症候群であり人と少し脳が違うということは証明され、一部の精神病のようなものはその二次障害であるということも判明したが、もちろんすべてがそれに該当するわけではない。最近思うのは、僕は執着や死への恐れがない代わりに、多分この状況を使命として与えられたのかもしれない、ということだ。――この孤独と浮遊感と現世の虚無に耐えて、何かを残すことが。ただ物事は長続きしないうえ、気まぐれなものだから、上手くいくかどうかは保証できない。改めて冷静に文章にしてみて、本当におかしな考えだと自分でも自覚しているのだが、そもそもこの考え自体、光から与えられたのだと思ってしまうあたり救いがない。(けど、人間というもの自体がそういうものだから、皆救いがないのかもしれないとも思う。)(お気づきだろうが、救いという言葉は、別に悲観するわけではなくて、息抜きにも似た笑いのために選んだだけである。)