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あれはなんだ かたちは無く

仲違いの顛末、そして不調の分析

家族と仲違いをした。年に何度か深刻な言い争いをする、そのうちの一つである。普段は普通の家庭以上に仲が良いし趣味も概ね合うのだが、時折些細なことがきっかけで互いの欠点を抉ったり酷く距離を感じたり精神的なダメージの大きな仲違いをして、普通の家庭以上に深刻な状況に陥る。

(家族の一人はもう論外。あの件は一生忘れられないだろうから、未来の自分がこの部分を読むと思い当たると思うだろうから、明記はしない。記録として付け加えるならば、1.後先考えずに私欲だけで家族を法的に巻き込む上血も涙もない、2.幼少時はまだいい記憶があるだけに余計切ない、3.友人として知り合いたかった。)

 

閑話休題。

お互いに、広義では同じ類である特殊な特性を持っているため、元々話がうまくいかないことも多いのだが、ノリや想像力で補っているため普段は特に問題はない。また、これらの特性はお互い別であると同時に、本人は欠点だと思っているということをお互い知っているので、触れることは禁忌として気を付けている。

しかし、それらは長い習慣の一つでもあり、また相容れない関係であることによって、片方が自分の特性として表出した場合、うっかりもう片方がそれに触れ、同時にその片方の特性が表出することが多い。大抵の場合、これが仲違いの発端である。

まとめると、Aの特性表出→Bがうっかり触れる&Bの特性表出→Aがストップを掛ける→Bの内面でモヤモヤ→険悪、という流れが多い。実際はもっと色々酷い。

特性が反対であり、それが欠点に直結する以上、どちらかが表出した時点でもう片方が表出することは避けられないし、両方表出した時点で両方が傷つくことになる。

 

大概の場合、僕は精神的な意味では何事にも真剣である。だから、筋が通っていなければ理解できないし、適当にはぐらかされたら困惑するし、適当に反応されたら憤慨を通り越して悲しみを感じる。何より、追い詰めないでほしいという人が自ら追い詰めてくることに、(精神面と論理面の両方で)辛さを感じた。筋道を重視することといい、心のどこかで理解しあいたいということといい、アスペルガー特有であるといえばそれもそうなのかもしれない。

最近、心身ともに不調なことも相まって、具合は悪いし思想はネガティブに傾くし、本当に参った。普段なら多少コントロールするのだが、今回は制御しきれなかった。制御しきれないといっても、落ち込める時間と場所で一人で落ち込んでいるだけで特に害はないと思う。

昔から、人とはうまくいかないのだ。客観的に考えて(悪い意味で)変な人々に当たったから不運だとも思うが、自分にも原因はあるとずっと思っていた。(そして最近、それは恐らく発達障害によるものとつきとめた。)それ以降も、色々調べたり工夫したりいっそ自由にふるまってみたりしているものの、どうも上手くいかない。

理解まではいかなくとも、一瞬でも誰かと感情を共有したい、と思うのが間違っているのか。自分の言動がもう救いようがないのか。最近は楽をしたい日本人が多いと言うし皆こんなことはどうでもいいのか。親友と呼べる人はいるにはいるが、全員感情を出さない性格だから、この類に対してどう思っているのかわからない。そもそもこんなに精神論について考えるのは少数派なのか。孤独は受け入れたつもりだけど、本当にそうなのだろうか。これからもこんな思いを抱えて生きていくのだろうか。

多分僕は本当は人間が好きなのかもしれない。そして、精神的な繋がりを感じたいのかもしれない。それにはやっぱり例の方法しかないから、試練だと思って頑張ろう。とりあえず頭が混乱してて酷い。一人、精神論をがっつり語り合える親友がいるから、その人にメールを送って議論してみよう。共感が欲しいのではないし、答えもないのだと思うけど、彼は確実に精神に真剣に取り組んでいる人であるから意見を聞いてみたい。まずは落ち着こうと思う。