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あれはなんだ かたちは無く

経過観察 減薬

気付けば20日近く書いていなかった。ただ単に、いつもの面倒くさがりとか、興味の転換だとか、そういう単純な理由。

詳しくは明記するが、冷静に考えると、このごろの不在には薬の影響もあったのかもしれない。

 

ここ最近薬をちゃんと飲んでいない。

それに伴って起きた変化の経過観察を記録する。

 

ストラテラは、結局、服薬後2週間ぐらいで強烈に圧迫感が出てきてひどく不快だったので、主治医の判断のもと、その時点で即中止した。

その後、他の処方箋を飲んだり飲まなかったりで(一応飲むように気を付けているつもりなのだけれども)、ほぼ薬から離れていた。

すると、4月21日の午前、「今、完全に薬が切れた!」と分かるタイミングがやってきて、それからは全く以前の状態に完全に戻った。

以前も書いたが、僕はこの不明瞭な精神状態を愛する、という、医師とはまったく逆のスタンスにたっているため、その状態はむしろ心地よいこと極まりないのである。

それからのここ数日間は、「完全に薬が切れたバカンス」を満喫させてもらった。

ただ、薬を飲んでいるのは症状が出ているからで、その状態ではやはり日常生活はグダグダになっている。もちろん、なるべくまともな生活になるように、いろいろと工夫を考えたり日課を与えたりして、努力はしている。

 

この「精神の快適さ」と「生活のまともさ」は、相反するもので、どちらか/どちらもを多少なりとも犠牲にしなければならない。

主治医の言うには、精神のことなど気にせず、一般の人と同じ状態になってまともに生きろということなのだが、それは僕にはとうてい受け入れがたい。

努力はしているが、この社会的状況は主に特性によるものだから、努力ですべてどうにかなるものではない。

そこで、ギリギリの服薬バランスを自分で模索することにした。細かい部分は自分で見つけよ、とのことでまあ乱暴なとは思ったがやってみる。

今は、朝2日に1錠を試している。その次は夜2日に1錠を試す予定である。

 

最後に、薬が効いている状態と、完全に切れた状態とを文章に残しておこうと思う:

前者…頭の中は静かで無音。一つのことを考え始めると、脱線することなく淡々と考えられる。集中はできず、のめりこもうとすると、ふっと興味が失せていく。常に頭に鉛を乗せたような重みを精神的に感じ、抑え込もうとされ、恐怖を感じる。

後者…頭の中は騒がしい。大都市の駅で、何百人もの人が話し、何種類もの音楽が流れ、何枚もの絵が、同時に飛び交っている感じ(居心地はすこぶる良い)。一つのことを考えようにも、関連事項やあたりが気になってなかなか進まない。一方で、一階集中すると、どこまでものめりこめるし、大変楽しい。まったく圧迫感はなく、むしろ頭が世界に開かれているような気がする。

後者の状態は僕の世界に深くかかわっていて、そう生きることをやめるということは死ぬことに等しい。そして、前者の状態が一般的な状態なのだということを思い知って、僕は、この特性に生まれたことを感謝した。

何にでもメリットとデメリットはあるもので、それは自分で選べる。ただ、最近は、周囲が干渉しようとするから、惑わされやすい社会になっているのかもしれない。