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あれはなんだ かたちは無く

心を読むということ/教育について/くだらぬ関係

・心を読むことということ

 

僕は他人の心が読めない。その代わりに、人間に対する観察眼が発達している。その結果、心が読めない、と言ったところで信じてもらえないことが多いし、余計な面倒事を増やしたくないので、まず人には言わないことにしている。

唯一直接このことを告げている肉親も多分本当には信じ切っていない。それは仕方がないこととして、どうしてそうなるのか考えてみた。

結論から言うと、日本語の「心を読む」は、様々な働きの複合語としての役割があるのだろうと推定している。つまり、たんに「他人の心中を推し量る」ということに集約されているそれらの働きを満たすことが「心を読む」ということなのだと思う。

それらの働きについて、具体的には現在三種類の働きを推測している。「他人の『感情』を再現しようと試みること」、「他人の『動作』を観察しようと試みること」、そして「他人の『要求』に応答しようとすること」、これらがそろって一つの動作をなしているのだろう。ただし、このことは一般的な社会および正常な脳機能を有している者には当然のことであって、「心を読む」ときに自分の働きがどのように細かく作用しているかを気に留めずとも自然に行動できる機能のようである。(少なくとも私にはそのように思われる。)

そして、僕はこのうち、「他人の『動作』を観察しようと試みること」の一種類の動作しかできない。他の動作も試してみたが、それらの働きは僕には初めから備わっていないようだ。(事実、社交性に関する損失が相対的に大きいとされる脳障害を患っている。)しかし、その動作は「心を読む」機能を構成する必然的な機能の一つであるため、一般の人には当然それ以外の機能も備わっているとみなされる。そのため、「心が読めない」と言ったところで、信じる信じないはおろか、そもそも厳密に理解されることが困難なのだろう、というのが現時点での仮説である。(もっとも、理解されることを諦めているうえ、そこに至るまでがハイリスクすぎるので、そもそも説明すらしないわけだが。)

※補足1.他の言語では「心を読む」という言葉とその意味がどのようにとらえられているのか、いつか調べてみたい。

※補足2.実は、僕の観察眼は、目視できる生物全体に及ぶかもしれない。まあ、それはまたいつか。

 

 

・教育について

 

教育に関する価値観は様々だし、それに対する位置づけもまた様々だ。それは各個人の意思に任されており、また、全ての人は自由に考える価値観を持っている。そのうえで私がどう考えるか、という問題。

現在この国で、緩やかにだがしかし確実に貧富の差が両端に集中していっているように、教育に対する意思もまた両端に集中していっているように思える。すなわち、学識や思考能力といったものに重きをおくかそうでないか、ということだ。

私は単純に、高学歴か低学歴か、それにともなう年収の高低がどうか、ということが言いたいのではない。あくまで私の価値観においては、教育に対する意識は、そのまま意識レベルに、ひいては生活や国勢そのものにも直結している。

役に立つか立たないか、人の上に立つか立たないか、そんなくだらないことではない。例えば、些細な言葉でお互いに苦しみを生まないように。例えば、正当に権利を主張して生きていくために。

人間は完璧ではない。人を傷つけ陥れることにおいて、戦争も喧嘩も根底にあるものは同じである。そして、人間の生み出した政府や科学もまた完璧ではない。だからこそ、状況を妄信しないということが大事だ。そして、人間は独りでは何もできない。

教育が全てを解決するとは思っていないが、価値観も言葉も異なり、刹那的なエゴが少なからぬ世界で手を取り合うとき、教育はきっと何らかの支えになる、と信じている。

 

 

・くだらぬ関係

 

第一にはもちろん僕の努力が足りないのではあるが、これまでの人間関係の9割以上が実にくだらぬ関係である。こんなにも高確率でくだらぬ関係にいきくわすのは、きっと社会が病気なんだろう。実にくだらぬ、浅はかで、芯のない関係ばかりで嫌気がさす。

客観的に言って、僕の出自は世間でいうところのかなりの下層にあたる。しかしながら、母親のたゆまぬ愛情と努力と、僕自身の向上精神と勤勉さと、いくばくかの幸運によって、客観的に言って今現在は世間でいうところの上の中くらいには向上している。だが最高ではない。そのこともあって、最高の環境であればくだらぬ関係も減るのかとも思ったが、たぶんきっとどこに行っても、割合が少々変わるくらいで基本的には同質なのかもしれない。

今の若者は、まるで、表面的に偽り、他人とたやすく同調することを美徳としているかのように見える。このことについて、善とも悪とも断定する気はないが、いずれこんな社会は自己崩壊して、大多数に踊らされるだけであろう。(もっとも、くだらぬ関係と、こんな社会が病気だと述べること自体が、僕の主観としての話・指摘である。)

個人的な意見を率直に言えば、まず僕は勧善主義ではない。正義や善悪というものは価値観や社会でたやすく変わるから、真実に値するものではないからだ。だからといって、真実追求を放棄し、世間を妄信することで考えようとしないことは、自分の生命に責任を持たないことと同義である。表面的に探り、閉じこもり、認められようとする虚栄の果てに何が果たせるというのか。人間の存在それ自体を、関係を包有する構成物と見なしたとき、そこに現れるこういった様相の何とくだらぬことか。

 

全くエゴの塊という人に人が集まることを目にしたことがある。怒るでもなく、ただただ不思議である。その人に別の点で魅力があるのか、何かの縁だか今世の特徴だかで同類の者が集まっているのか、本性を見抜いた僕を敵とみなし使い分けているのか。十中八九そんなところだろう。いずれにしても、前提の時点で実にくだらぬことだが。