Ж,!

あれはなんだ かたちは無く

意思に生きる

自分の価値観について気が付いたことを書き留める。以前から気が付いていた「死を恐れない」という別の価値観とも関わりがあるのかもしれない。

 

基本的に自分の価値観を他人に押し付ける事は嫌いだ。ただし、もし偏見だとしても、自らの価値観に従って生きている以上、自分に自分の価値観を問い但し確認するということは認められると思っているし、その結果として一般的な価値観に反することになったり、それで衝突することがあったとしても、仕方のないことだと考えている。

 

僕は人類みな平等だと考えている。立場や財産など何も関係がない。自然という世界の中に生まれ死んでいく、ただそれだけの弱い存在でしかない。だから僕は、相手の立場によって態度や意見を変えるということはしない。またそれは自分に背いていることにもなる。しかし、これを快く思わない人もいる。それについてどう思うかといえば、やはり自分の意思に生きていこうと思うのだ。

あるところに王がいて、僕が対等に接することを好ましく思わないとする。それで「わたしにこびへつらわなければ、お前の首をはねる」と言われたとしても、僕は喜んで刑を受けるであろう。どのみち、自分の意思を殺して生きる人生など死んでいるのと同様だと思うからである。

命にまつわる僕の価値観についても考えてみる。例えば戦いが起こったとすれば、僕は進んで国に残り、国のために戦うであろう。逃れられない争いにおいては、守るために進んで戦う方である。また、だれかの命で世界を救えるとしたら、僕は戦いと同様進んで命を捧げるであろう。平和を好むのはもちろん、好きな人が幸せならばそれでいいという発想の延長である。

そんなことをする必要や理由がわからない、生きていれば救いがあるという人もいるが、僕はそれらの言葉を信じていない。救いがあるなんて思っていない。絶望もあるとも思っていないが。そもそも、救いや絶望などというのは主観的な判断でしかない。だからこそ、「生きていれば救いがある」という人は、進んで救いや絶望の判断をしようとしていないとも取れる。それでもかまわないが、僕自身は自分で現在の状況を享受したり逃げたくなったり、主体的にかかわることが好きである。主体的にかかわらない人はきっと、いつまでも救いや絶望を願っているのだろう。僕の思想に、理想郷や地獄や別の生命という意味での死後の世界がないのは、このあたりの価値観がかかわっているのかもしれない。

ところで、僕は自分の命を決して軽視しているわけではない。むしろ尊重している。尊重し、自分の意思を裏切らずに生きようとして命を放棄することになったときは迷わず受け入れる、ということである。それは他人からすると、自分の命を軽視しているように見えることもあるかもしれないが、それについては仕方がない。個々の価値観と判断は一致するものではなく、一致する必要もない。ただ、自分で自分の考えを把握しているということは重要なことだとは思う。