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あれはなんだ かたちは無く

違和感の正体

久々に家族と口論をした。切っ掛けは仕事絡みの話であったが、話をしているうちに以前から家族に対して感じていた違和感について、はじめて気づくものがあった。

 

一言でいうと、自分の家族関係は本当に深刻なのだ。どの家庭にも多少なりとも問題はあるのだろうけれど、規模や溝の深さにおいて、客観的に見て絶望的な状態だ。以前から言っている通り、自分には家族が1人しかいないと思っている。百歩譲って2人か。他の存命の人々は、とても血がつながっているとは思えないくらい色々な意味でひどく、もう諦めているし話もできるとも思わない。改善する気もない。

さて、その2人の家族であるが、基本的には良い人たちで趣味もある程度合うのだ。しかし、ふとした折にこうして口論になった際には、本質的な意味ですごく遠いと感じる。絶望的な意味では全くないのだが、ふっと、「ああ、無理だ」と感じる。お互いのために、近づきすぎない方がいい、そう直感でわかってしまう。家族ってこういうものじゃないだろう。だから、それはとても悲しいことのように思う。

その原因の1つとして今日はっきりわかったのが、その2人と自分とは、思考回路が全く真逆である、という事である。別に意図しているわけではないのだが、自分はどうも理論や言語によって構築して考えたり話したりする事が得意であるらしい。そして2人はその逆だ。理解するとかそれ以前に、何を話したいのかがかみ合わないし、どうにかしようとすればするほどお互い苦しくなる、そんな状況。普段からかみ合っていないのだが、今日のように口論などの状況において、それは浮き彫りになった。

根本的な解決をすることは難しいし、きっと解決もできない。だから適度に色々工夫をするしかない。もしかすると自分が家族というものに理想を抱きすぎているだけかもしれないけれど、時々むなしくなる。いや、色々あった分だけ、家族に対しては確実に人より理想が低いはずなのだ。誰が悪いわけでもないのだが、一度眼を向けると抜け出せない、出口の見えないトンネルのよう。どうすればよかったんだろう。

 

ここからは単なるメモ。

今日に限ったことではないが、まぁ落ち込んでばかりいても仕方ないし、状況を活かす方向で考えてみよう。

 

・言語に多少なりとも適正があるということで、もう少し真面目に文章や語学を再開しよう。

・家族をはじめ、年齢のわりに本当に辛いことが多いわけだが、もうたぶん運命なのだと思う。そういう状況を昇華して何かを成す、それが自分の使命の1つであるような気もする。それに耐えられるかどうか。

もしかしたらこの先もずっと辛いことばかりなのかもしれない。それでも、幸い、元来の性格はポジティブだし、この世に興味がある限りはなんだかんだ言ってどうにか生きているのだろうね。

・さて、思考回路とか、(脳の発達的に)自分が少し変わっている、という事をふまえて。もうずっと前からわかっていることだが、人は理解しあえない。自分の思う理想は、きっと精神的だったり芸術的な世界にしか存在しない。そしてそもそも、世の中の人の多くはこんなに1つ1つを深く真剣に考えたりしない。

もちろん皆が適当とは言わないけれど、かなりの部分が行き当たりばったりに見える。人生や、死や、誕生でさえも。そのことにも時々苦痛を感じてしまう。

そこから言えるのは、かなり前から覚悟していることだが、自分はやはり孤独に生きていく定めなのだろう、と思う。もちろん前述の、精神・芸術においては、人外のものとのふれあいという意味では全く孤独ではない。そうではなくて、いわゆる一般的な社会的な意味では、きっと孤独なのだろう。人は皆孤独なものだが、本当に人との深いつながりを悉く絶たれている気がする。そういう道が自然すぎて抵抗もないが、そうでない場合はどうだったのだろう、と時々思うこともある。

・現実的なこと。色々痛みが多くてゆっくり過ごしているわけだが、実際的にも、開放的にも、そろそろ行動しなければなるまい。というわけで、そろそろ後回しにしていた事に着手しよう。