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あれはなんだ かたちは無く

価値観に従うと決めたなら、自分を信じよう

2014/02/16に、久々に家族と喧嘩をした。これまで何度もすれ違っていたが、その根本たる理由である価値観の不一致が明らかになった。

双方に動揺が走ったが、次の日には良好な距離に戻っていたように思う。例によって僕は眠ればすっきりするし大体今更価値観を変える気もしないので当然なのだが、向こうはどう思っているのかはわからない。

なお、そのぶつかり合いの中で、改めて自分の価値観、それに対する社会的なもの、など得る物があったため、資料として残しておこう。妙な所で律儀なもので、順番は沿ってある。メモを見ると珍しく動揺していた痕跡が見られる。しかし、その同様の理由たる自分の価値観は、それ以上の動揺を経て何とか考え付いたものである。つまり、それにしたがって生きると決めた以上、自分が動揺しようが周りが否定しようが、本当に今更なことなのだ。

 

価値観 - これまで話していた内容からもすれ違いが伺えたが、どうやらそれは決定的なものであったらしい。

まず、僕は、以前からも言っているが、裏表だとかうわべだけの付き合いというのが本当に嫌いだ。本当に誰かその人とやっていこうと決めたなら、心から接していきたい。何か諍いが起きたとき、丸く収めるために、笑顔で曖昧にしてうやむやのままにするのも嫌いだ。それは相手を傷つけないようにと言えば聞こえはいいが、結局のところ自分が傷つきたくないのと同義なのだ。大多数の人が殻にこもっているような気がする。そしてそれは国民性でもあるような気がする。本当に疲れてしまう。

もちろん、これが全ての人に当てはまるとは思わない。だから僕は全ての人と仲良くできる気もしない。小中学生の頃は全員に好かれたいと思っていたこともあったが、そんな事は無理だ。ただし、ある程度素性が分かり、本当に上手くやっていきたいと思う人にははっきりと接している。その結果、激突したり本音を聞き出せたり、仲が深まったり疎遠になったり、色々あったが一つも後悔していない。

問題は、家族は丸く収めるタイプの人間だし、若い頃に色々あって議論するのも難しいという性質なのだ。もちろん否定はしないが、それによる思い込みが重なって、結局は件の喧嘩に至ったようである。

 

価値観ついでに。以前も書いたかもしれないが、年齢を問わず、精神的に自立している人・ある程度自分をコントロールする人が好きだ。現代ではそうでない人の割合がそれなりに多く、よく気を付けて自分で選んでいかなければすぐに一人二人は現れる。幸いにして僕はそういった性質はすぐに見抜くことが出来るため、なるべく向こうもこちらに興味を持たないように工夫している。今のところ奏功している。

 

喧嘩の間、考えていたのはひたすら申し訳ないということであった。どうして自分はこんな奇妙な価値観を持っているのだろう。意図していなかったとは言え、それで人を傷つけて、存在するべきではないのだろうなと考えていた。つまり、一時的に自己評価が著しく低下していた。

結局のところ価値観は人それぞれだし、というよりあくまで多様な考えや会話の末に哲学的に熟慮して得た価値観で誇りを持っているし、それが誰かと合わないなら仕方がない。と断言できるのだが、なんというかその時は、それらの僕の価値観は根本的に社会に受け入れられるものではなく(確かに色々異端だと自分でも思う)、何より喧嘩している相手に「普通の家庭」を提供すべきで、そして世の中の大部分はその普通に従って生きているからこそやはり僕はいなくなったほうがいい、そう考えていた。自分ひとりで生きているわけではない。それは否定しない。だからこそ、喧嘩当時の僕のバッドループも理解できてしまう。

これに対する結論は出ていないが、やはり、「夢を諦めない限りは自分の信念に従って生きる」、つまり色々なものを犠牲にする覚悟はできている。そうすると、ひょっとしたらこれからも、このように僕に「普通」を望んだ人々と対立したり、僕が一時的にネガティブになったりするのかもしれない。ものすごく申し訳ないのだがどうしようもない。むしろ、こうやって未来に対する傾向と対策を多少なり得ただけましなのかもしれない。

 

年齢について - 以前から親しい人には言っているが、僕は年齢は気にしない。年上だから全員偉いとも思わないし、年下だから全員幼稚だとも思わない。あくまで一人の人として見て、僕の思う尊敬する基準に沿っていれば尊敬するし、友情としての好意を持てる基準に沿っていれば友情としての好意を持つし、しかり。

もちろん、今は日本社会で暮らしている以上TPOは考えるし、相手の価値観を聞いたうえでしかるべき言動をとっているし、年齢は気にしないが全員人として失礼のないように心掛けるようにしている。それは社会で生きる以上は当然のことだと考えている。

それでもどうも年齢中心の社会にはどうもなじめない。ひどく暗いというか独善的というか、そんな雰囲気を感じるのだ。「年長者だからという事実は、僕にとって尊敬に値する理由にならない」ということに家族はひどく驚いていた。

 

家族について - 正直、僕は一般的に言う家族という概念が理解できない。僕の中にある家族の概念とは、1.社会的に家族とされている人間か、そうでないか。 2.生物学的に血がつながっているか、そうでないか。の2つだ。これら2つは僕にとって同義ではなく(別の種類の家族という響きに聞こえる)、またそれ以外のことはわからない。家族はこのことにひどく落胆していた。

ただし、これらの意味での家族を抜きにして、愛する人というのは存在する。以前も此処に書いたが、僕の言う愛する人というのは曖昧なのだ。一般的にいう家族・友人・恋人のどれも含むようであるが、共通するのは、それらの人には幸せになってほしい、と感じる。距離感がゼロと言うのとは違うけれど(というか依存しあう関係は無理だ)、心から思える人というのかな。まったく表現しづらい。細かく書こうにも対応する言葉が(言語を問わず)少ないのだから、やっぱりこの価値観もきっと一般的ではないのかもしれない。

 

とにかく、色々あったわけだが、僕の価値観が一般的かそうでないかは分からない。一般というのがそもそもわからないからね。ここで言いたいのは、僕は結局のところ、受け入れられなくても受け入れられてもそれでいいのだ。なぜならば、全員価値観は違うし、正解はないから分かるはずもない。

ただし、一時的にこのように自己評価が低下したり、パフォーマンスが悪くなることがあったり、罪悪感を感じたりするから、「それはどうしようもないんだよ」と慣れていこうと思った。

 

メモには最後にこう書いてある:

”一般的で、うわべだけで、流されれば、多分楽だし誰とも衝突しない

それは解りきっていることだが、僕はそれは嫌だ

取り巻く状況が良く分析できず混乱している”

混乱しつつも、混乱しているという状況はよく解っていたらしい。

これからどう価値観が変わっていくかは分からないが、今は、何があっても後悔と罪悪は感じないだけタフになる必要があると思う。