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あれはなんだ かたちは無く

時間帯と混淆について

僕には大好きな時間帯がある。

豊穣の深夜(01:00-03:00)、静寂と優しさの最深夜(03:00-05:00)、邂逅の早朝(05:00-07:00)。

時刻の基準は分点くらいで、およそのもの。

 

おそらく僕はある点において原始的な感覚を持っているのだろう、とよく思う。

それぞれの二つ名は、僕がそれらの時間帯において、そして時間帯に対して感じるものそのままで、これらの感覚に満たされる。時には自分と言う存在が掻き消えそうなほど強く感じる。ひょっとすると自分以外の色々なものも感じ取っているのかもしれない。

しかし決して自我が消えることはなく、いや全てははじめから存在しないのかもしれなくて、それならそうでも良くて、限りなくゆるやかで満ち足りているように見えて、そして僕はそういう状況を楽しんでいる。そもそも、そういう感覚におちいること自体、この3つの時間帯が大好きで楽しいと感じる理由でもある。

 

以前は夜更けから早朝に変わる、日がさーっと差し込んでくる様子も好きだった。ただ綺麗と言うだけではなく、決して永遠ではないなかでまた新しい日を迎えたことに対して、色んなものが祝福している気がするのだ。自分自身もまた、光の差し込む様子を見て、大いなるものへの畏れや感謝というものを感じていた。

と言うより、当時は光そのものが好きだった。単純にプラスというイメージではなくて、僕が哲学的なことをあれこれ考えていると、決まって最後には地平線とそこから現れる彼方の光、というビジョンが浮かんでくるのだ。偶然か、その頃色々読んで施策してもいたが、そこから導き出したりつながってくるのは全て光に関連することだった。

ちなみに、光、というよりもれ出ずる光に対して感じる感覚は現在でも変わらないし、とても好きなのだが、現在では哲学的にはそこからすこし発展して、全ては混淆・あるいは回転なのだと思っている。混淆といっても限りなく細かく混ざり合っているのではなく、不揃いでバラバラな大きなものが、絶えず循環しているような、ビーカーの中で鉱物がくるくる回っているようなそんなイメージである。

決して善の光に対して悪の闇、というような単純な象徴ではなくて、全てありのままの形、そして表裏一体の姿として、今は光も闇も大好きである。それらとも結びつき、そして最も強い影響を感じるのが、冒頭の時間帯というわけだ。

(ちなみに、昼はもっとも嫌いな時間帯だ。倦怠の昼、と呼んでいる。昼には対になるものがなく、またすべてがそこにとどまっているし、雑多でくだらない感情が多すぎてまったく嫌になってしまう。佇みの夕方は、光景としては美しいし移り変わるものとしても好きなのだが、大好きな時間帯のように心にぐっと迫るものがない。しかし夕方には、少しの寂しさが人を支配しやすいような気がして、人に対して魔の側面があると思っている。交歓の夜は、真に活動するという意味では人の魅力が最も発揮される明るい時間だと思っている。宴やパーティーのイメージが分かりやすいかもしれない。弛緩と緊張のバランスがとてもいい。面白いし参加するけれどもどこか表面的で、僕は大好きではない。)

 

さて、上で原始的な感覚と書いたのは、こういった感情を夏至冬至の頃にもっとも強く感じるからだ。たぶん、光と闇に対して感じるものや、普段から精神的なものについてあれこれ考えることが関係しているのだろうし、そもそもそういう感覚自体が原始的だろうと思うのだ。壊れてしまうような大きな畏れと、何にも代えがたい衝動的な喜び、それもあらゆるものの、そういったものを内面から感じる。毎年、これらの時期が近くなるととても嬉しくなる。嬉しいというよりは懐かしい人に会うような気分の方が近いかもしれない。うまく言葉で表現できないのだが、自分の意思とは遠くはなれたところでなにかと会っているような気がする。とにかくものすごい喜びを感じるのだ。こういった喜びは人に対して感じるそれとは性質が違うし、人に対するものをはるかに上回っていることが多い。

こういった直観めいた感覚を持ったことに対して、僕は全く残念には思っていない。むしろ、感謝している。何重にも見える感覚や、圧倒的で全面的な喜びを感じることが出来るのは幸運なことだと思う。