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あれはなんだ かたちは無く

Sに捧ぐ祈り

今朝早く4時半に、親戚夫婦のうちで飼われている雀のSが亡くなった。11年と2ヶ月、老衰による死である。もうこの1ヶ月ほどはずっと具合を悪くしていた。

(動物というものはすべからくそうかもしれないが)Sは大変に規則正しい生活を好み、明け方に目覚め夕暮れに眠りについていた。

2年を過ぎたころから随分穏やかな性格になり、甘える時以外には鳴かずに静かにかごの中で遊んで居た。それが、今朝は急に騒ぎ出して、親戚夫婦は何事かと起き出していった。そうして、そのまま亡くなったらしい。彼が大好きな人のそばで暖かい最期を迎えられてよかった。

恐らく偶然だとは思うが、いくつかSの死と重なった出来事もある。僕はもうずっと何か月も、親戚が亡くなるような悪寒がしていた(誰かまでは特定できないが、僕はときどきこのように動物っぽい直感がはたらく)。今朝早くに、母が職場で真っ白な花のつぼみが落ちているのを見つけてそれを拾うと、生死は不明だが、はじめて見る真っ白なダンゴムシを見つけたらしい。死んでいるにしてはやけにまっすぐでいきいきとしていたという。そして最後に、Sが亡くなった直後、親戚夫婦が可愛そうに思って窓を開けたところ、これまで見たことのないくらい沢山の雀が空に集まっていたらしい。

 

Sは親戚夫婦に大変可愛がられていて、そこへ遊びに行く度に微笑ましくなったものだ。色々な嬉しい楽しい記憶も実に多い。

実はこのSは僕が子どもの頃に、雀の子が死にかけているのを保護したものの、家族全員家にあまりいないため、動物好きの親戚夫婦が引き取って育てていた。

正直に言うと、保護したのが正しかったのかどうか、自分の判断を疑ったことがないと言えば嘘になる。だが、起きた事は起きた事。すべては必然。結果として生きているなら、それが結局Sの望んだ未来だったのだと思う。

まだあまり実感がわかないが、時々胸の奥が苦しくなる。親戚夫婦は悲しそうにしていたけれど、もうずっと動物を沢山飼っているからかそうでないかはわからないが、どこか穏やかで、周囲の心配するほど落ち込んではいないらしかった。

 

輝きが消えて、輝きが生まれて、どんどん巡っていく。その流れは、人にはとらえきれないほど大きすぎる。もともと僕は無駄な殺生を嫌い、虫一匹も殺さないのだ。息をつくその空気に、幾千幾億もの思いと命がただよっていて、今日に限らずとも、ときどき押しつぶされそうになる。気にしなければいいのだろうが、それは僕には出来ない。気にしてしまうからこそ、出来ることもきっとある。そしてきっと全てはやはり繋がっているし、僕もいつかは死んで、というよりも全てが生まれてくる懐かしい場所へと、帰っていく。たしかなことは、全てはすぐそばにあるのだ。

もうこの世界で物質として会えないという意味では、死や別れは確かに悲しい。しかし人が覚えていれば、その人が死んでも生きた世界がまた覚えていれば、死は完全に消えたという事ではない。しかし時としてこの循環や世界の密度というものは、充満し絶対の存在感を持ってどこまでも続いているからこそ、苦しくもある。生きているからこそ喜びも苦しみもある、とかいう言葉じゃない。生きていても死んでいても、全ての繋がり、命、記憶、思い、絆。何万年分もの束になって絶えず身に響く感覚は楽しくもあるし苦しくもある。多分この感覚は使命でもあるのだろうけれど、今は模索中だ。

これらの事は以前から考えていることだけれども、よりいっそう強く意識した。

 

とまぁ悪い癖でまた脱線してしまったけれど。

Sに巡り合えて良かった。安らかに眠ってほしい。